教室の歴史・歴代眼科教授年表
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当眼科教室は、明治17年に初代眼科医長の就任をもって始まりました。
1862 | 加賀藩種痘所(反求舎)開設 |
1867 | 加賀藩卯辰山養生所(病院部門)完成 |
医学館と薬圃を付設 | |
1870 | 金沢藩金沢医学館と病院開設 |
加賀藩の藩校明倫堂が廃止(寛政4年以来79年) | |
1871 | 金沢県医学館(改称) |
1876 | 石川県金沢医学所(医育部門)と金沢病院(医療部門)に分離 |
1879 | 石川県金沢医学校(改称) |
1884 | 石川県甲種医学校(昇格) |
1887 | 第四高等中学校医学部(改称) |
1894 | 第四高等学校医学部(金沢大学医学部の前身) |
1901 | 金沢医学専門学校(金沢大学医学部の前身) |
1923 | 金沢医科大学(金沢医学専門学校の昇格) |
1939 | 金沢医科大学臨時付属医学専門部併設 |
1949 | 金沢大学医学部(金沢医科大学の改組) |
2001 | 金沢大学大学院医学系研究科(改称) |
2008 | 金沢大学医薬保健学域医学系(改組) |
1884 | 山崎兵四郎 | 石川県甲種医学校眼科長(〜1887) |
1888 | 有松戒三 | 金沢病院眼科長(〜1888) |
1888 | 高安右人 | 金沢病院眼科長(〜1890) |
1890 | 第四高等中学校医学部眼科教授(〜1924) | |
1921 | 山田邦彦 | 金沢医学専門学校眼科教授(〜1924) |
1924 | 金沢医科大学眼科教授(〜1927) | |
1927 | 中島實 | 金沢医科大学眼科教授(〜1940) |
1942 | 倉知與志 | 金沢医科大学眼科教授(〜1952) |
1952 | 金沢大学医学部眼科教授(〜1971) | |
1971 | 米村大蔵 | 金沢大学医学部眼科教授(〜1988) |
1988 | 河崎一夫 | 金沢大学医学部眼科教授(〜2001) |
金沢大学大学院医学系研究科 脳医科学専攻 | ||
2001 | 脳病態医学講座 光情報伝達学(〜2002) | |
2002 | 杉山和久 | 金沢大学大学院医学系研究科 脳医科学専攻 |
脳病態医学講座 視覚科学(〜現在) |
歴代教授
明治17年6月〜明治20年11月8日在任
明治17年 東京帝国大学医科大学卒。
石川県甲種医学校で眼科を教授した。のち海軍大軍医に任ぜられた。
明治17年 東京帝国大学医科大学卒。
石川県甲種医学校で眼科を教授した。のち海軍大軍医に任ぜられた。
明治21年〜明治21年4月在任
明治20年東京帝国大学医科大学卒、生理学、外科学、病理学、眼科学兼任であった。
明治20年東京帝国大学医科大学卒、生理学、外科学、病理学、眼科学兼任であった。
1860年〜1936年
明治21年4月14日〜大正13年4月19日在任
明治20年7月東大医学部卒、明治41年第12回日本眼科学会総会において、「奇異なる網膜血管の変状に就いて」の論文を発表。のちに「高安病」と命名され、世界的に有名となった。
明治21年4月14日〜大正13年4月19日在任
明治20年7月東大医学部卒、明治41年第12回日本眼科学会総会において、「奇異なる網膜血管の変状に就いて」の論文を発表。のちに「高安病」と命名され、世界的に有名となった。
1888年〜1927年
大正13年3月〜昭和2年8月22日(死去)在任
大正5年東京帝国大学卒。39歳の若さで死すも、「眼玉ハ小ナレドモ眼科学ハ小ニ非ズ」と一喝した逸話がある。
大正13年3月〜昭和2年8月22日(死去)在任
大正5年東京帝国大学卒。39歳の若さで死すも、「眼玉ハ小ナレドモ眼科学ハ小ニ非ズ」と一喝した逸話がある。
1893年〜1951年
昭和2年10月27日〜昭和15年4月1日在任
大正8年東京帝国大学卒。昭和15年4月に名古屋帝国大学教授に転任し、昭和25年東大教授に就任したが、翌年永眠した。享年57歳。
網膜の組織呼吸の研究から眼生化学的研究に応用した。
教室訓「学ハ人ニヨリテ貴し、教室ハ道場ナリ、研究ト修養トニ努ムベクトウ安ヲ許サズ」を残し、その額は今も医局に掲げてある。
昭和2年10月27日〜昭和15年4月1日在任
大正8年東京帝国大学卒。昭和15年4月に名古屋帝国大学教授に転任し、昭和25年東大教授に就任したが、翌年永眠した。享年57歳。
網膜の組織呼吸の研究から眼生化学的研究に応用した。
教室訓「学ハ人ニヨリテ貴し、教室ハ道場ナリ、研究ト修養トニ努ムベクトウ安ヲ許サズ」を残し、その額は今も医局に掲げてある。
1905年〜1982年
昭和17年10月27日〜昭和46年3月31日在任
昭和7年旧金沢医科大学卒(現金沢大学)。網膜を中心として眼の新陳代謝の研究を進めた。昭和39年、ライオンズクラブの協力を得、金沢眼球銀行(現石川県アイバンク)を立ち上げた。
昭和17年10月27日〜昭和46年3月31日在任
昭和7年旧金沢医科大学卒(現金沢大学)。網膜を中心として眼の新陳代謝の研究を進めた。昭和39年、ライオンズクラブの協力を得、金沢眼球銀行(現石川県アイバンク)を立ち上げた。
1923年〜1992年
昭和46年7月1日〜昭和63年3月31日在任
昭和21年旧金沢医科大学卒。臨床網膜電図学の創始者の一人として知られ、網膜電図の律動様小波 oscillatory potentialの命名者であり、律動様小波の臨床的重要性の発見は内外で有名である。
昭和46年7月1日〜昭和63年3月31日在任
昭和21年旧金沢医科大学卒。臨床網膜電図学の創始者の一人として知られ、網膜電図の律動様小波 oscillatory potentialの命名者であり、律動様小波の臨床的重要性の発見は内外で有名である。
1936年〜
昭和63年6月1日〜平成14年3月31日在任
昭和37年金沢大学医学部卒。臨床視覚電気生理学の研究に重きをおいた。前教授とともに単行本「臨床網膜電図学」を著した。現金沢大学名誉教授。
昭和63年6月1日〜平成14年3月31日在任
昭和37年金沢大学医学部卒。臨床視覚電気生理学の研究に重きをおいた。前教授とともに単行本「臨床網膜電図学」を著した。現金沢大学名誉教授。
1958年〜
平成14年12月1日〜現在
昭和59年金沢大学医学部卒。昭和59年4月〜平成14年11月30日まで岐阜大学眼科に在籍し、平成12年12月岐阜大学助教授を経て、平成14年12月母校に教授として就任。主な研究テーマは、緑内障の基礎と臨床であり、全国各地からの講演依頼全てをこなしている。教室の診療研究の三本柱を「緑内障・網膜・角膜疾患」とし、基本姿勢としては、「和の精神・教室は道場・医師は教師」の三つを掲げ、日夜、自らも研究と診療に励んでいる。
平成14年12月1日〜現在
昭和59年金沢大学医学部卒。昭和59年4月〜平成14年11月30日まで岐阜大学眼科に在籍し、平成12年12月岐阜大学助教授を経て、平成14年12月母校に教授として就任。主な研究テーマは、緑内障の基礎と臨床であり、全国各地からの講演依頼全てをこなしている。教室の診療研究の三本柱を「緑内障・網膜・角膜疾患」とし、基本姿勢としては、「和の精神・教室は道場・医師は教師」の三つを掲げ、日夜、自らも研究と診療に励んでいる。
沿革
明治初年の頃の金沢医学館、金沢医学所および金沢医学校時代では眼科専任の教官はなく、眼科学を講じた者には、スロイス、ホルトルマン、ローレッツ、田中信吾、中西要、佐藤廉などがある。明治17年に石川県甲種医学校が設立され、同年6月に一等教諭医学士山崎兵四郎が眼科長に就任した時に初めて眼科が独立した。当時眼科は四大学科の一つとして考えられていたが、本校も内科、外科につぎ眼科をいちはやく独立した科として持ったのである。
山崎兵四郎は明治20年9月に海軍軍医として学校を去り、明治21年4月から高安右人が着任し、以後眼科医長として大正13年までの36年間の長きにわたり眼科を主宰した。高安が赴任するまでの間は有松戒三が眼科医長を3ヶ月務めた。明治32年7月から34年7月までの2年間、高安右人はドイツに留学したので、この間は第二内科部長佐々木逵が眼科長を兼任した。
明治27年9月第四高等中学校は第四高等学校と改められ、さらに明治34年4月に第四高等学校医学部は金沢医学専門学校として独立し、大正12年4月には旧制金沢医科大学に昇格した。この間、眼科部長は引き続いて高安右人が担当し、金沢医科大学専門学校長、金沢医科大学長を歴任した。
大正13年に退官した高安右人に代って眼科副部長山田邦彦が眼科部長に昇任したが、昭和2年急逝し、愛知医科大学(名古屋大学医学部の前身)助教授中島實が眼科学教授に就任した。
中島實は昭和15年4月に名古屋帝国大学教授に転任したので、助教授倉知與志が教室を主宰することになり、昭和 17年10月に教授に昇任し、さらに戦後には教室員も増え業績があがり、また附属病院長、医学部長を歴任した。
倉知與志教授が昭和46年3月停年退官した後、助教授米村大蔵が昭和46年7月に教授に昇任した。米村大蔵教授は附属病院長も勤め、第11回日本眼光学学会会長および第92回日本眼科学会会長を務め、昭和63年3月停年退官し、名誉教授となる。
米村大蔵教授退官後、河崎一夫助教授が昭和63年6月に教授に昇任し、平成6年第42回日本臨床視覚電気生理学会会長、平成10年第102回日本眼科学会宿題報告を担当した。平成12年4月から附属病院長を2年務め、その間の平成13年第67回日本中部眼科学会会長を務め、平成14年3月停年退官し名誉教授となった。
平成14年12月に、昭和59年金沢大学医学部卒業の杉山和久が岐阜大学眼科助教授を経て第 9代教授に就任した。平成22年4月から平成24年3月には附属病院副病院長、平成30年からは副医学系長を務め、平成23年の第115回日本眼科学会総会評議員指名講演(旧宿題報告)、平成30年の第72回日本臨床眼科学会特別講演を行った。また、平成24年9月に第23回日本緑内障学会(金沢市)、平成27年5月に日本視野学会、平成30年5月に第23回国際視野画像学会(International Visual Field and Imaging Symposium)の会長を務めた。他にも、当教室員が会長を務める学会として、平成29年6月の第73回日本弱視斜視学会(会長:杉山能子)、平成30年の第7回日本視野学会(第23回国際視野画像学会と同時開催、会長:大久保真司)、平成30年11月の日本眼腫瘍学会(会長:高比良雅之)を開催した。
明治初年の頃の金沢医学館、金沢医学所および金沢医学校時代では眼科専任の教官はなく、眼科学を講じた者には、スロイス、ホルトルマン、ローレッツ、田中信吾、中西要、佐藤廉などがある。明治17年に石川県甲種医学校が設立され、同年6月に一等教諭医学士山崎兵四郎が眼科長に就任した時に初めて眼科が独立した。当時眼科は四大学科の一つとして考えられていたが、本校も内科、外科につぎ眼科をいちはやく独立した科として持ったのである。
山崎兵四郎は明治20年9月に海軍軍医として学校を去り、明治21年4月から高安右人が着任し、以後眼科医長として大正13年までの36年間の長きにわたり眼科を主宰した。高安が赴任するまでの間は有松戒三が眼科医長を3ヶ月務めた。明治32年7月から34年7月までの2年間、高安右人はドイツに留学したので、この間は第二内科部長佐々木逵が眼科長を兼任した。
明治27年9月第四高等中学校は第四高等学校と改められ、さらに明治34年4月に第四高等学校医学部は金沢医学専門学校として独立し、大正12年4月には旧制金沢医科大学に昇格した。この間、眼科部長は引き続いて高安右人が担当し、金沢医科大学専門学校長、金沢医科大学長を歴任した。
大正13年に退官した高安右人に代って眼科副部長山田邦彦が眼科部長に昇任したが、昭和2年急逝し、愛知医科大学(名古屋大学医学部の前身)助教授中島實が眼科学教授に就任した。
中島實は昭和15年4月に名古屋帝国大学教授に転任したので、助教授倉知與志が教室を主宰することになり、昭和 17年10月に教授に昇任し、さらに戦後には教室員も増え業績があがり、また附属病院長、医学部長を歴任した。
倉知與志教授が昭和46年3月停年退官した後、助教授米村大蔵が昭和46年7月に教授に昇任した。米村大蔵教授は附属病院長も勤め、第11回日本眼光学学会会長および第92回日本眼科学会会長を務め、昭和63年3月停年退官し、名誉教授となる。
米村大蔵教授退官後、河崎一夫助教授が昭和63年6月に教授に昇任し、平成6年第42回日本臨床視覚電気生理学会会長、平成10年第102回日本眼科学会宿題報告を担当した。平成12年4月から附属病院長を2年務め、その間の平成13年第67回日本中部眼科学会会長を務め、平成14年3月停年退官し名誉教授となった。
平成14年12月に、昭和59年金沢大学医学部卒業の杉山和久が岐阜大学眼科助教授を経て第 9代教授に就任した。平成22年4月から平成24年3月には附属病院副病院長、平成30年からは副医学系長を務め、平成23年の第115回日本眼科学会総会評議員指名講演(旧宿題報告)、平成30年の第72回日本臨床眼科学会特別講演を行った。また、平成24年9月に第23回日本緑内障学会(金沢市)、平成27年5月に日本視野学会、平成30年5月に第23回国際視野画像学会(International Visual Field and Imaging Symposium)の会長を務めた。他にも、当教室員が会長を務める学会として、平成29年6月の第73回日本弱視斜視学会(会長:杉山能子)、平成30年の第7回日本視野学会(第23回国際視野画像学会と同時開催、会長:大久保真司)、平成30年11月の日本眼腫瘍学会(会長:高比良雅之)を開催した。